運転を哲学する男 小林眞のコラム 62.歴史の勉強

 ~ 歴史の勉強 ~

歴史の勉強といえば、高校時代の年号丸暗記が思い出されるが、そんな記憶が何の役に立つのだろうと、いつも思っていた。そして、「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」など、今でも覚えているが、その記憶が何かの役に立ったという記憶はない。(その後、それは1185年に修正された)

先日、歴史学者の本を読んだ。「歴史を勉強する目的とは、未来を知るためではなく、現在の可能性を理解するためだ」という内容の記述があった。その文章によって、これまで私が感じていた閉塞感、歴史の勉強に対する不信感は払拭された。

高校時代にこの本が存在し、読んでいたのであれば、歴史を学ぶことについて、私は違った視点を持つことができたはずである。

さて、私たちが取り組んでいる交通事故防止活動とは、交通事故件数の減少だけを目標とするものではない。交通事故を減らすだけであれば、様々な方法がある。

例えば、ガソリン税を何倍にも引き上げ、ガソリン価格を高騰させてしまえば、道路を走る自動車は減り、交通事故も減る。
自動車を最高速度が30km/hしか出せない構造にしてしまえば、事故は減る。しかし、そんなことは誰も期待していない。

私たちが実現しようと考えている交通環境とは、互いに譲り合い、支え合うことで構築される安全な交通環境である。そこに、過度な負担や苦痛が伴うようでは、机上の空論にすぎない。

私たちが目指す交通環境とは、歴史学者が語ったように、そこには大きな可能性が存在すべきものなのだ。
つまり、交通安全に価値を認め、安全運転を続けることに喜びを感じるものでなければならない。それが安全運転本来の姿だからである。

人類は、豊かな想像力と言葉によって、多くのものを作り上げてきた。多くの技術者の知恵と努力が積み重ねられ、自動車はより安全に、より快適になった。
しかし、安全については、期待された成果を上げていない。それは、自動車の安全機能が不足しているからではなく、私たちドライバーの安全意識が不足しているからである。

歴史学者の言葉を引用すれば、「安全運転について考える目的とは、交通死亡事故ゼロの可能性を理解するためだ」ということになる。
そうだ、交通死亡事故ゼロとは、空想なのではない。実現可能な現実のことである。その実現可能性を理解するためにこそ、私たちは安全運転について考え続けていくべきである。

PAGE TOP